先日は「カウンセリング」の授業でした。なかなか面白かったよ♪
帰りに中学の英語の先生をしている友人と一緒に帰りました。その人とは英会話の授業の時に友達になったのです。年は親子ほどってわけじゃないけど、まあそれなりに離れているかんじ。学校の現状とか聞かせてもらってます。

その人が今回のカウンセリングの授業はものたりなかったと言ってました。いや、短い時間だからしょうがないし、導入としては十分おもしろい授業だったとおもうんだけど、その人としては
「もっと、学校の現場でこうすればうまくいくみたいな、そんなことを教えてもらえると思ったんだけど・・・」
「けっこう参考になりましたけどね~。例えばどういうことですか?」
と聞くと、先日学校のトイレで、明らかにタバコ臭くて、個室がしまっているという現場にいあわせたのだそうです。それで
「タバコのにおいしてんで」
って注意して、授業戻るように言ったんだそうです。そしたらその子が「なんやねん、証拠あるんか、決めつけるんか」って言ったそうです。タバコ吸ったとは言ってない、でも臭いしてるし、だからそう言ったのに。と中学の先生。
「多分、そのこには「臭いがしてる」って言われるのは「吸ってる」って言われるのと同じに聞こえたんでしょう。別の言い方してみてはどうですかね?「しんどいの?だいじょうぶ?」とか」
「そんなん通じる相手と違うねん。「なんやねん、うざいねん」で終わるんやから。こっちがニコニコしとったら、それさえも気に入らんねんから」
現状は厳しいということは分かっているし、私が考えることというのはいかにも現場を知らない人間の意見なんだと思うんですが、私はこう思いますと前置きして、さらに話をすすめました。
「例えば、その人の行動を変えるほどの影響力をもつ発言ができるとすれば、その人の中に入っていかないとダメだと思うんです。表面的ではなく、心に直接うったえられなければ、どういう言葉も意味を持たないと思うんですね。
カウンセリングであっても、それは同じです。その人の心に入っていくためには、二つの方法があるっていうのを授業で見ましたよね。一つは信頼してもらえるまで、相手の心に同調する。もう一つは、厳しい言葉で相手の怒りを買う。怒っている間、相手は本心で話すわけだから、その本心を捕まえることができれば、相手の心にはいっていけるでしょう。でも、後者はとても難しいテクニックだし、私には無理です。だったら、友達になるほうがずっと簡単なことだと思うんです」
「そうなんやけどね。なんかさ、カウンセリングする方の心が充足してないといけないって、授業でやったやん。私は不十分やわ。自分がカウンセリング受けたいもん」
現場の人は本当に毎日苦労してるんですよね。そりゃいやにもなりますわ。
でも、そうですよねで終わっても何も変わらないし、そういうのは嫌だなって思ったのでさらに話を進めます。
「完ぺき主義者なんですか?」
「そうやね。職業的にっていうのもあるかな」
「先生になろうって人間がこんなこと言うのはどうかと思うんですが、タバコ吸うたからって、人生終わるわけやないんやから、「あんた、学校ではやめときや」ぐらいでもいいんちゃうかなって思うんですよね」
「それは教師としてアカンやろw自分が良くても、学校としてこういうふうに対応しようっていうのが決まってるんよ」
「分かってはいるんですけどね、同じ人間ばっかり集まったところって子ども達にとってはすごく窮屈だと思うんですよ。色んな考え方の先生がいるから、ちょっと息抜きになったり、ちょっと気を引き締めたりして、そういうののほうがバランスとれると思うんです」
「でもな~。学校としてあるからな~」
カウンセリングの授業でもやったんですが、例えば自分が教師であろうとすると、教師という枠に自分を押し込めることになるので、とてもしんどいわけです。自分らしく教師をすればいいんですが、それだと敵を作ることになります。カウンセリングの先生は、自分らしく生きて敵をつくるほうがいいっていう結論でした。敵と同じだけ本当の味方も増えていくから。全部の人に好かれようなんてことはもともとできないんだから、自分の個性を輝かせて生きたほうが得ですよね。
でもやっぱり、現場には現場にしか分からない苦労があるのだと思います。
「私は心配なんよ。ここで軌道修正できひんかったら、この子らどうなっていくんやろうって」
「それなりに人生を楽しめますよ。私にはなぜだか不良って呼ばれてた友達がいっぱいいるんですが、今は強くていいお母さんやし、幸せそうにしてますよ。人からどう思われたって、自分が幸せかが一番大事でしょう。私も人から見たら誉められたモンではないですが、自分のやってきたことに後悔はないです。やりたいことやってきましたからね。レールの上だろうが外だろうが、歩いていけるし、歩いてること自体幸せに感じれるなら、その人が最強ですやんwどんな人生だって幸せはみつけられると思います」
「そう、思う?私はな、その子自身がどうなっていくんかは、そのこの責任やと思う。でも、周りに迷惑かけたりしたら。例えばその子どもとかに。子どもに罪はないのにかわいそうやんか」
「私の母親はたいがいぶっ飛んでますけど、中学生の時には「この人のことは母親じゃなくて、同居人と思おう」って思ってからは、うまいことつきあってますよ。母には母の考え方とか、世界観とかがあって、それは母親っていうのには不向きやったけど、人間としては尊敬できるから、それでいいんですよ」
「そんなふうに思える子ばっかりじゃないやんか。今は事件とかいっぱい起こってるし」
分かります。すごくよくわかるし、すごく心配されてるのも分かります。この先生の言い分はほんとうにもっともだと思うんです。しかもとってもいい先生です。子ども達のことを考えてる。でも、子ども達の立場に立って考えてみると、どうでしょう?
「私はあなたを心配してるよ」
って言われるのと
「私は、あなたが将来何をするかと思うと心配なんよ」
って言われるのと。言ってるほうとしてはそれほど変わらないニュアンスかもしれないけど、言われたほうは・・・・私は後者の発言をした人とは腹をわって話すことは無いでしょうね。
最近、わたしは人それぞれの言葉があるような気がしています。同じ日本語であっても、若者の言葉とお年寄りの言葉は違うし、例えばメールを頻繁に使う息子とコミュニケーションがとれないといっているお父さんと友達になったときにも言ったのですが、息子さんにとってはメールが言葉なんですよね。お父さんが飲ミニケーションを言葉だと感じるように息子さんにとってはメールがコミュニケーションツールなわけです。対面して話しているのと変わらない感覚でメールを使っているんだと思うんです。目の前で話しかけられて無視したりはしないように、メールの返信も彼らの中では礼儀なんですよね。
何が言いたいかって言うと、相手の目線で、相手の言葉で話しかけないと、お互い腹を割って話し合うって言うのは難しいかもってことです。無理だとは思いません。でも、相手の言葉を理解できなきゃ、言葉はキャッチボール
にはならないですよね。どちらかというと、言葉のドッチボール
。「ちゃんとしなさい!」「ほっとけや!」みたいなwまあ、だからといってこぶしで語り合う
とかいうのは、私にはできないですがw
カウンセリングの授業でも「相手の言いたいことを聞くこと」を訓練しました。人は「自分の聞きたいように聞く」くせがついているから。言いたい事をありのまま聞くってすごく難しいですが、大切なことですね。
中学の先生との教育談義はそこで途切れました。電車で分かれることになったので。
どちらが正しいとかは、ないんだと思います。行動でそれを示さない限り私の言うことはただの概念ですしね。
最近私は人がダイヤモンド
に見えて仕方ありません。メガネを変えたほうがいいとか、そういう意味ではなくてwその人のもともと持っている素質とか性格とか可能性とか、人には短所と思われるような特徴とか、そういうのって人間として美しいですよね。美しいし素晴らしいんだけれど、表面に泥とか土とか、手垢とかついてるかんじ。そういう汚れは、例えば自分で自分をあきらめているだとか、現実でうまくいってないこととか、過去のトラウマとか、そういうものなんだと思う。
そういう汚れを少しづつふき取っていくのが、教育者ってことなんかな?と最近思うのです。
最近のコメント