思うこと考えること

コピ・ルアック

コーヒーは、朝飲むに限る。
もちろん夜も飲んだりするのだけれど、その日あった色々な澱がコーヒーの黒いのに溶けてしまって、どうにも落ち着かない。
朝、ぼんやりしながら、少し寒いのだけれど外へ出て
背もたれのある椅子を一脚、森のある方へ耳をすまして座る。
鳥の声、鳥の声、風の音、さらさらと葉っぱがこすれて目を覚ます音。
寒くなった体を、とびきりおいしく作ったコーヒーで暖めながら、モカの香りのする朝もや色のためいきを吐き出す。
コーヒーをすする音、鳥の声、ごくりと嚥下する、風の音、ほぅっと一息、朝焼けにおこされて、つやつやと輝きだす緑。
そのうち家族もおきてきて、同じように椅子をならべて、コーヒーを一杯、そしてため息を吐き出す。
言葉はあまり必要ないのだ。

そういう時間がとびきり贅沢だと感じる。
だからコーヒーは朝飲むのがいい。

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私とあなたが、ほんとの王様

民主主義っていうことについて、以前ブログでも少し触れたような気がするのですが。
今「民主主義」を題材にしてレポートを書いているので、その端々に思ったことをまとめておいておくことにします。
今日本は民主主義という形をとっていますが、日本の本質が民主主義かと問われると、少し違うと感じることがあります。
じゃあ民主主義の本質ってなによ?ってことになります。
色々と意見が出てくるだろうと思うのですが、「自分と、人とを尊重する精神」としておきましょう。
字から考えるに民が主であるのですから、そこに住む人すべてを主と見ているということになりますよね。国民なんて抽象的な言葉をとっぱらってもっと具体的に言っちゃえば、私とあなた。

そういう主義をとっている国なんだけれども、そういう精神がみんなになければどうなるのか?
民主主義の反対は独裁主義ですが、そういうことになるのかもしれません。
あるいはもっと他の何かに、何か別の名前を必要とする主義ということになるのかも。
今の日本がどういう状況で、それにどんな名前をつけるのが適当かという議論は、テレビの専門家にまかせるとして、もっと身近な自分たちに、あるいは私とあなたに目を向けてみたいと思います。

自分の中のパラメーターに「自信と卑屈」という一本の線があって、それがどちらにかたむいていても、民主主義にとって良くない方向に行くような気がしたのです。
「自分だけが一番」であれば、独裁的になってしまうし、「自分なんて」と卑屈になるとそれもまた民主主義を壊しにかかっていると思われます。例えば選挙でも、「どうせ変わらないから」と投票しなければ、それは独裁主義に一票を投じているのと同じことだと思うのです。
イメージわきませんかね?
例えば責任ある立場の人(担任の教師でもいいですし、社長でもいいですね)が、自信をなくして何も手を打たなかったらその組織はどうなるでしょうか?悪くはなっても良くはならないでしょう。民主主義っていうのは、私もあなたも、みんなが総理大臣ってことなんだと思うんです。
だから、選挙で当選した人は投票してもらった人の権利をちょっとの間貸してもらっているだけなんです。もともと権利をもっていて責任をもっているのは、投票する人の方なんですから。「どうせ自分の意見なんて」と思ってアクションをおこさないのは、職務怠慢ってことだと思うのです。

さて、ここで考えたんですが、「自分だけが」とか「自分なんて」って言う考え方って、他人が軸になってますよね。他人を軸にして自信のパロメーターって動くものなんでしょうか?
本当に自分に自信があるというか、自分を大切にできる人って、人も大切にできるんじゃないかな。

最近、気になってるんですよ「他人軸」の考え方。一番気になるのは「幸せ」を他人軸にしている人が意外に多いことです。
子どもの頃に、レストランに食べに行って、他の席の子どもが
「食べられない国の人もいるのだから、あなたは食べられて幸せなんだから全部食べなさい」
と言われていたのです。
この話しましたかね?
私はそれが不思議でしかたなかったし、違和感を感じてたんです。だって、自分が食べ物を残さず食べることと、世界の食料事情とがつながっているとは感じられなかったから。
食べられない子が不憫なら、寄付をするべきで、その子を引き合いに出して自分たちは幸せだなんて、おかしくないですか?
私は食べられることは幸せだと思います。だっておいしいし、命をつなげるし、食べられるぐらい健康であることと、調理してくれた人と、食材を提供してくれた人と、食べ物そのものの命にも感謝しています。だから残さず食べます。
でも、もし目の前に食べることができない人がいたら、私は食べないと思う。食べられないと思う。その人たちのことを思いながら、私は幸せだなんてどうして思えるのか、私には不思議です。

お金とか、生活とか、よく自分たちよりも「下の人たち」を勝手に想像したり作ったりして、それを考えて幸せだって言う人を見かけるのですが、上下関係を勝手に作ってしまうのは日本人の癖ですかね?
自分軸で幸せだって言える状態って、充実感とか自分を信じられる幸せとか、そういうものだとおもうのです。そしてそっちのほうが、幸せの本質な気がしません?

話がずれましたかね?いや、ずれてないのかも。

民主主義の根本が「自分と人とを尊重する精神」であるならば、自分軸で生きることは大切な基礎だと思うのです。
だって、「人とくらべてどうか」というのが根本にあったとしたら、民主主義の精神は演技になってしまいますよね。
「誰かよりは私の方が人を尊重しているわ」とか「あの人よりは自分を尊重できるわ」ってなっちゃいません?
そういう意味では民主主義という制度は、人間の質を鋭く問う制度だと言えるかもしれません。だからこそ、一人一人の人間が大切なんですよね。

子ども達をどう育てるかという所ともつながってきますね。子どもに民主主義を分かってもらうのってすごく難しい。「自分のしてほしいことを人にしてあげて、自分にしてほしくないことは人にしない」というのがベターですが、最近は色々な人がいますので一概にそうだと言うことが難しくなってきています。相手をまず理解しなければその人が本当にしてほしいこと、してほしくないことがなかなか分からないのです。
私が子どもだった時は「義務と権利」という言葉で民主主義を習った気がしますが、重すぎて堅苦しく感じたものでした。特に「義務」は堅苦しい感じがしますよね。縛られるイメージがあるのは、そういう言葉を使って縛られていると感じた時期があったからかもしれません。
私は未だに「義務」の本質をわかっていないなと自分で思います。
だから今のところはこう考えています。権利がすべての人に与えられているのだと。
私と同じ権利が、隣の人にも与えられている。権利と権利がぶつからないように、あるいはぶつかってもお互いが気持ちよく過ごせるように義務が存在する。
大人になると、納税の義務とか、職務上の義務とか、そういうものがありますよね。強制されてると考えるとこれは独裁主義になってしまいますからねぇ。これは自ら進んでやっていると考えるべきなのではないかなぁと。
つまり、他の人たちの生きる権利や、安全に過ごす権利、最低限の暮らしをする権利なんてもろもろの権利を守る為に自主的に行っていること。なわけですよ。
気分的には、「なんだよ、めんどくさい」って時があったとしても、本質的にはそういうことなんだと思うのです。
よし、レポート書こう。

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虫と私の話

9月11日
ムカデに噛まれました。明け方3時です。
ものすごくいたくって、何かが手のひらにささっているとおもって、暗い中手を動かしてみたんだけど、ぜんぜんとれなかったんです。髪の毛が手に刺さっているのかとおもって、布団の端で手をぬぐったんだけど、尋常じゃない痛みだったので、とにかく電気をつけました。
布団と自分の手をみてみたけど、何もなくって、やっぱり夢だったのかと思ったのです。あきらめて電気を消そうとしたんですが、やっぱり手が痛い。よくよく見ると血も出てきました。
もしかしてとおもって、敷き布団をめくってみると、細長いムカデがそこから部屋の家具の下まで一目散に走って行きました。
とりあえず虫さされの薬をぬって、手を冷やして。父親に言って部屋のムカデを退治してもらいました。
次の日には腫れも引いて、痛みもさほどではなくなっていました。

どうやら人間というのは、色々な生き物と共存する事がほとほと不得手な生き物のようです。他の生き物からすれば、これほど傲慢で気分屋で、恐ろしい生き物もいないでしょうに。
そして痛いってことを表現しないではいられない生き物でもあります。
子どものけんかでも、手が出るとその応酬を止めるのには一苦労です。痛かったという事を、どうにかして相手に伝えようとするからです。結果ラリーになってしまうわけですが。
本当は、自分の事を相手に分かってほしいだけなんだけど・・・
もしムカデと交渉ができて、自分は噛まれるのが嫌だってことを伝えて、ムカデもそれはしないでおくって約束できるのなら、一緒に家に住む事ができるんですがね。でもそればかりだと、そういう交渉をした虫とか動物であふれてしまって、自分の寝るスペースがなくなるかもしれませんが。
ちなみに、今我が家で共存がうまくいっているのは、ヤモリとかイモリ(ヤモリはは虫類、イモリは両生類だと今知りました)、ナメクジとクモ達です。彼らとは平和協定を結べたので、仲良くやっています。自分の部屋の窓にいようが壁にいようが、お互いにある程度の距離感を確保しながら、共生しています。

言葉がわかり合えない動物と共生できないのは、ある意味しかたないことではありますが、人間同士が共存できないのは、人間にとって致命傷でありましょう。
ラリーの応酬も子ども同士なら止められますが、大人が行うと大変なことになります。ましてやもっと規模が大きくなれば、なおのこと。
共存するということ。
そのためにどう行動すればいいのか。
もう少し長い時間をかけて、考えながら、行動しながら、自分にできる事をやってみたいと思います。

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縁があるから出会う人々

友達に誘われて、今母校の吹奏楽部を教えにいったりしています。
そのなかに、技術はあるんだけど、ノリが悪くてぜんぜん楽しそうじゃない子がいるのです。
「楽しんだらええねんで」
って言っても楽しみ方がわからない様子。
それでもけっこうちゃんと演奏できてるから驚きです。
で、その子と色々話し合う機会がありました。
短くまとめて彼の自分に対する分析をあげるなら、こうです。
・人の目が気になって、自分を偽ってでもいい人になろうとする。
・自分に対して自信がなく、嘘をつきつづけてきた自分を信用できないでいる。
・その結果、犯罪まがいの「いたづら」をしてしまう。
・人に見つからなければ何をしてもいいと思っている。
・人から必要とされたいけれど、ほめられたり必要とされる言葉をかけられても、素直に聞く事ができず、どうせ自分をのせようとしている、気遣って言っているだけだと思う。
以上のような事を話してくれました。
ちゃんと彼の口から聞いたのですよ。それを人に言っちゃえるところがまだ子どもらしくて可愛いとは思いますがねw
それでも、彼の心は頑なです。明日には自分は変わっているかもしれない、とか、自分のなりたい人間になれるとかいった希望的な私の話はすべて否定して聞いてしまうんですね。
自分の中に「人の目」っていう架空のおりを作ってしまっているようです。それを崩すのはなかな時間がかかるのはよくわかっているので、とりあえず人の言う事は素直に受け入れるようにと約束して帰ってきました。ほめられている時はちゃんと素直に喜ぶ事。それは人の感情に対して誠意をはらうことと同じだから。
ちょくちょく、そういう子に出会います。でも今回は男の子だからかしら、ほんとに頑なですね。いや、思ったまま言ってくれるのはいい事なんだけどさ。
教員採用試験の討論の時にね、「人にどう思われているかを分からせる教育をしたいです」というような趣旨の発言をした人がいたのです。その人の言葉を借りるなら「自分が勝手な行動をおこす事によって、周りが迷惑して、それによって非難されているんだということを感じられるようになれば、そういった行動をおこすことがなくなる」というのです。
確かに事実だけ見ればそうです。先生の卵がそういう発言しちゃうんだと思って、私はすごく驚いて、反論しようかどうか、すごく迷ったんですが、その方にとってもこれは採用試験の面接であるわけで、また時間も長くなると大切な事が議論できないと判断して、その発言はあまり突っ込まず、次にすすんだんですよ。自分としてそれは正しい判断だったのか、未だにわからないのですが・・・
冒頭の高校生のような子をつくる教育って、まさしく「人の目を気にさせる教育」だと思うんですよね。もちろん、いろんな要素がはいってくるんだとは思います。でも、その根幹はそこのような気がするんです。
自分の外に原因を作る癖はつけないほうがいいです。人に言われるから、人に笑われるから、外部の原因によって動かされている時期はわずかだし、そういうのはすぐに行き詰まる。
自分の中の要因によって、つまり「自分が好きだから、自分がしたいからそう行動する」という動機が一番シンプルで強いのだと思います。
それを外部の動機づけにならされてしまったら、自分で考える事ができなくなる。自分で自分を評価できなくなる。人の目ばっかり気にして、結果人がみていなければ何をしてもいいと勘違いするようになる。
討論の時に私が感じた違和感と、ルソーが本の中に書き残した警告が、形となって現れたかのような彼の姿をみて、私は恐ろしさを感じました。それと怒りです。
多分これをよんでくださっている数少ない人の中にも、私が何を恐れ、何に憤っているのか釈然としない方も多いのかもしれません。
私は、正しい行動をさせようとして強要するあまり、結果正しい事をできなくなるような子どもをつくる教育に憤っているのです。そして、それがまかり通っている社会が恐ろしいと思ったんです。
ただ、幸いな事に、こういう考えは直す事ができます。自分に自信をとりもどすことはできます。たとえ彼が今の時点で絶対にないと否定していても、数年後にはいまより自分を信じられて、今より自分を好きになった彼に会える事を私は確信しています。今までであった人たちがそうであったように。
でももうこれ以上、そういう人を増やしてほしくない。
私ができることは、ただ「人間はなりたい自分へと変わっていける、私がそうであったように、私がみてきたたくさんの人がそうであったように」と言う事を伝えて、行動で、証明してみせるだけ。

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「エミール」ルソーとの対話

あいかわらず、「エミール」と毎日を過ごしております。
言葉の使い方としてあっているのかはわからないけど、最近思う事があります。
「現実と真実と真理」普通に過ごしていると、この三つは同じものか、あるいはとても類似したものとして考えられるんだけど、つきつめていくほどにこの三つは離れていくように感じるのです。
現実っていうのは、事実と言ってもいいけど、とにかく現象としてあらわれているもの。例えば「子供が約束を破った」という事実。という解釈をしています。
真実っていうのは、事象に対してもっと精神的なものだったり、バックグラウンドを加えたものだと解釈しています。上の例をひきつぐなら「なぜ約束をやぶったのか」ということ。仕方がなかった理由とか、そういう風に育った経緯なんかも含まれるかも。
真理というのは、真実からみえてくる、もっと普遍的なもの、哲学的なもの、という解釈をしています。今までは一つの事例だけをみていたけれども、もっと範囲を広げてそういう事例すべてについて言えることを真理とする。と考えて「エミール」から引用してみましょう。約束を破るという事について、かれはこういう普遍性を見いだしたようです。
「子供は約束をするとき、どういうことをしているのか知らないのだから、約束をしたからといって嘘をつくことにはならない。約束を破るときは同じようなことにはならない。それは遡及的な嘘ということになる。子供はその約束をしたことをよく覚えているからだ。しかし、彼には、約束を守ることがどんなに重大なことかということがわからないのだ。未来のことを読み取ることができない子どもは、事物の結果を予見することはできない。だから約束を破ったときにも子どもはその年齢にふさわしい理性にそむいたことは何一つしてはいないのだ。
 その結果として、子どものうそはすべて教師のしわざということになる。そして、子どもに真実を告げることを教えようとするのは、うそをつくようにと教えることにほかならない。一生懸命になって子どもを監督し、指導し、教えようとしながら、人々はそれに成功する十分な手段をけっしてみいだすことができない。人々は子どもの精神のうえに新たな影響力を持とうとして、根拠のない格率や理由のない教訓をもちだすが、かれらは子どもが教訓をよくわきまえていてうそをつくほうが、無知のままでいて、うそをつかないより好ましいと思っているのだ。」<岩波文庫「エミール」ルソー著>
ここだけ出すとなんだかわからないかもしれないですね。私的な解釈をつけくわえておきます。例えば小さな子どもに「しばらく静かにしていてね」なんて約束をするとします。彼らはしばらくは静かにしているでしょう。でも、そのうち騒がしくなって、同じことをもう一度言うはめになるはずです。だからって、それが重大な悪いことにはならないでしょう?子どもだって悪気があってやっている訳ではないのです。もともと彼らは静かにしているようにはできていないのですから。それに、ルソーも言っているように約束がとても大切なんだということをまだ理解していないわけです。
ですが、大人としては静かにしていてもらわなければ困る訳です。大人としては約束を破ったのだから当然の結果として罰を受けるべきだと考える訳です。それは大人のルールであって、子どものルールではないのですが、そういうことには気付けないのです。結果子どもは叩かれるとか、そういう罰をうけるとしましょう。子どもだって何度も続けばそれをさける手段を考えだします。つまり嘘です。わかったふりをして回避するか、大人の見ている間だけ静かにしているか。とにかく知恵をつかってきりぬけようとします。でも本当に人間として約束を守ろうとかそういう気持ちがあるかと言えば、全くそんなことがわかっていない以上、良心に従って約束を守っているわけではないのは明らかですよね。あるいは「約束は破ってはダメ」とわかっていながらも自分の感情に素直になることがそれに背いてしまうとわかった子どもがいたとしたら。そのほうがずっと悲惨な気がします。
その状態が最後の方の文章「かれらは子どもが教訓をよくわきまえていてうそをつくほうが、無知のままでいて、うそをつかないより好ましいと思っているのだ」ということになるわけです。
まあこんな感じでルソーとは意見が合う事が多いのですが、それでも手放しでそうだそうだとうなづけないところもあります。ちょっとそれは極論すぎないか?とか、過激だわ〜なんて発言もあるんですが、それ以上にこういう違和感を感じるのは、彼がすべて真理をみつめているからかもしれません。と、最近思うのです。
ここで話は冒頭の「現実と真実と真理」に戻ってくるのです。
ルソーはほかにも、子どもはうんと自由にさせてあげたほうがいいよ。ってことを言うのです。何もない広い原っぱに子どもを連れて行って自由に遊ばせてやる。現実的にも比喩的にも、彼はそういう教育がいいよってすすめています。危険なものはあらかじめ取り除いておけば「ダメ」を言わなくてすむし、無理な約束事をする必要もない。子どもに、柵があるなんて気付かれないほどの大きな大きな囲いの中に包み込むような環境づくり。私もそうしたい。
でも残念ながら現実はそうそううまくそういう環境を作り出せないのです。そのことはルソーも気付いていて「でもね、それって僕のせいじゃありませんよ」って言っています。まあ、そうなんだけどね。
上の約束の例にしたって、子どもにわざわざそういう約束をさせなければいいって話なんですが、なかなかそうはいかないのが現実です。公共の大人のルールで運営されている場所に子どもを連れて行く事も多々ありますからね。触っては危険なものを近くにおいておかないといけない場合も同様に、意味のない約束事がかわされるわけですが・・・でもそんなのは全部大人の理由で、子どもには関係ない事なんですがね。
ルソーは徹底的に理想を書いている。といえばそうなのだと思います。でも、これがもっと現実に近くて「こういう場合はこうしなさい」的なHow to本だったらどうだったでしょう?そういう本もたしかにありますし、それはそれで参考になるんですが、ここまで長い間「教育の本」として人々に読み継がれる事はなかったと思います。現実にどう適用するかは私たちの力量って事ですよね。
それにしても、200年も前に書かれた書物なのに大人が子どもにする事ってたいして変わってないんですね。けがをさせまいとして、弱い子どもを育てたり、健康にいいからといって薬をのませたり、いい人間を作ろうとして人間不信のうつろの目の人間を育てたり。矛盾している、効果がないと、どこかで思いつつもそんなことをずっと繰り返してたんでしょうか。
ルソーは自然というものを大切にしています。自然である事、人間的である事、生物として自然の感情や感覚。そういうものに敬意をはらっているように読み取れます。今ほど不自然な生活をしている時代はないであろう私たちにおこっている様々な事件も、この本の中からその真理を見いだす事ができるようなきがします。
でもそれにどう立ち向かっていくかは、今を生きる私たちの仕事なのでしょう。そういう意味で「難しい書物」だと言われていたのかもしれませんね。

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体育的指導

はじまりました。パレードに向けての練習が。

今回は私は裏方。今までは前に立って教えていたんだけれども、今度は教える立場の人を教えなくてはいけないようになりました。まあ、サポート的な。

難しいです。自分がやっちゃったほうがずっとはやいけど、そんなん意味がない。どちらかというと世話焼きな性分なので、あれこれやってあげたいし、教えてあげたい。けど、そんなことしたら自分で考えなくなっちゃいますからね。

「教え方を教えるって難しい」と思っていて、どうやったらいいか考えていたんですね。ある程度一緒にやってきたとか、私のやり方を見てたとか、そういうのなら話は早いんだけどな~。あるいは、先生が教えてくれている時に熱心にメモをとっていたとか。そうだったらちゃんとポイントは分かっているだろうから、教え方にも筋がとおるし、筋の通った話や教え方ができる人って、教えてもらうほうもわかりやすいもんね。でも、そのどちらでもない。「え~自分がおしえるんですか?!」って人が前に立ってはじめて人に何かを教える時って、その準備をフォローする立場ってどうしたらいいの?

私がこうしたらって、提案しちゃうと、まんまその通りにしそうで恐いし。とか色々考えてたら、あることに気がつきました。

私の教え方が一番いいなんて、誰が決めたの?ってこと。無意識のうちに自分のやり方が一番いいような錯覚におちいっていたんだなって、気づきました。あぶないあぶない。

後輩の教え方のほうがいい場合もあるし、その子も一生懸命考えている。だったら私はその子から学ぶつもりで、また、一緒に新しい教え方を発見するつもりで一緒に考えたらいいんじゃないかって、思ったのでした。

後輩を信じて、一緒にみんなが楽しんで上達する方法をかんがえよう。

そう思っていたのに・・・

さっき電話がありました。教える立場の子がこんなこと言い出したんだけどどうしましょう?っていう電話で

「1時間半の練習時間のうち、1時間を筋トレとストレッチとで使うって言ってるんですけど・・・」

う~~~~~ん。

「えっと、自分でやってみてから検討してって、伝えてくれますか・・・・」

これを見ている人はわかりにくいですかね、例を挙げましょう。例えばテニスの初心者達にテニスを教えるとします。初心者の人は体力がありませんよね。だから1時間半のクラスの1時間を筋トレとストレッチに使ってとにかく体力をつけさせてやろう。という感じです。対象者はまだ筋肉つききってない、現代っ子達です。

「あの~正直ね、無謀だと思う。でも、前に立つ子が、自分でストレッチと筋トレやってみて、どうしても1時間かかってしまうというなら、それはしょうがないんだけど・・・でも、もし私がかわりに前に立って教えることになったら、そんなメニューようせんし、ようささん。とにかく、自分で一度やってみろと・・・・」

私、思うのですが体を動かす体育的なことを教えるのに、笛だけ吹いてる教師って、前に立つ資格ないと思う。特にきつい運動を強要するような時は、まず一緒にやってみないと、どれぐらい疲れてきているかがわからないじゃないですか。人間って不思議なもので、自分だけきついことを強要されると、強要した相手に対して不信感を抱くけど、きつい出来事を共有すると、信頼感というか連帯感が生まれるんですよね。

この間体育の授業があったんだけど、その体育の先生が、自分が心がけていることを教えてくれました。一つは絶対に座らないこと。全体が見える位置に立つこと、誰よりも早く来て、準備を行うこと、最後まで残って後始末をきちんとすること。あと、無理をさせないことだそうです。いいコーチや指導員というのは、体を動かすツボとか、メカニズムをよく知っていて、挑戦はさせても、無理はさせないんだそうです。怪我をしたら、なにもかも台無しですからね。

う~~ん、そういうことを伝えないとダメですねw私が。

がんばりますp(´∇`)q ♪

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カウンセリングの授業だったよ

先日は「カウンセリング」の授業でした。なかなか面白かったよ♪heart02

帰りに中学の英語の先生をしている友人と一緒に帰りました。その人とは英会話の授業の時に友達になったのです。年は親子ほどってわけじゃないけど、まあそれなりに離れているかんじ。学校の現状とか聞かせてもらってます。earpaper

その人が今回のカウンセリングの授業はものたりなかったと言ってました。いや、短い時間だからしょうがないし、導入としては十分おもしろい授業だったとおもうんだけど、その人としては

「もっと、学校の現場でこうすればうまくいくみたいな、そんなことを教えてもらえると思ったんだけど・・・」

「けっこう参考になりましたけどね~。例えばどういうことですか?」

と聞くと、先日学校のトイレで、明らかにタバコ臭くて、個室がしまっているという現場にいあわせたのだそうです。それで

「タバコのにおいしてんで」smoking

って注意して、授業戻るように言ったんだそうです。そしたらその子が「なんやねん、証拠あるんか、決めつけるんか」って言ったそうです。タバコ吸ったとは言ってない、でも臭いしてるし、だからそう言ったのに。と中学の先生。

「多分、そのこには「臭いがしてる」って言われるのは「吸ってる」って言われるのと同じに聞こえたんでしょう。別の言い方してみてはどうですかね?「しんどいの?だいじょうぶ?」とか」

「そんなん通じる相手と違うねん。「なんやねん、うざいねん」で終わるんやから。こっちがニコニコしとったら、それさえも気に入らんねんから」

現状は厳しいということは分かっているし、私が考えることというのはいかにも現場を知らない人間の意見なんだと思うんですが、私はこう思いますと前置きして、さらに話をすすめました。

「例えば、その人の行動を変えるほどの影響力をもつ発言ができるとすれば、その人の中に入っていかないとダメだと思うんです。表面的ではなく、心に直接うったえられなければ、どういう言葉も意味を持たないと思うんですね。

カウンセリングであっても、それは同じです。その人の心に入っていくためには、二つの方法があるっていうのを授業で見ましたよね。一つは信頼してもらえるまで、相手の心に同調する。もう一つは、厳しい言葉で相手の怒りを買う。怒っている間、相手は本心で話すわけだから、その本心を捕まえることができれば、相手の心にはいっていけるでしょう。でも、後者はとても難しいテクニックだし、私には無理です。だったら、友達になるほうがずっと簡単なことだと思うんです」

「そうなんやけどね。なんかさ、カウンセリングする方の心が充足してないといけないって、授業でやったやん。私は不十分やわ。自分がカウンセリング受けたいもん」

現場の人は本当に毎日苦労してるんですよね。そりゃいやにもなりますわ。sadでも、そうですよねで終わっても何も変わらないし、そういうのは嫌だなって思ったのでさらに話を進めます。

「完ぺき主義者なんですか?」

「そうやね。職業的にっていうのもあるかな」

「先生になろうって人間がこんなこと言うのはどうかと思うんですが、タバコ吸うたからって、人生終わるわけやないんやから、「あんた、学校ではやめときや」ぐらいでもいいんちゃうかなって思うんですよね」

「それは教師としてアカンやろw自分が良くても、学校としてこういうふうに対応しようっていうのが決まってるんよ」

「分かってはいるんですけどね、同じ人間ばっかり集まったところって子ども達にとってはすごく窮屈だと思うんですよ。色んな考え方の先生がいるから、ちょっと息抜きになったり、ちょっと気を引き締めたりして、そういうののほうがバランスとれると思うんです」

「でもな~。学校としてあるからな~」

カウンセリングの授業でもやったんですが、例えば自分が教師であろうとすると、教師という枠に自分を押し込めることになるので、とてもしんどいわけです。自分らしく教師をすればいいんですが、それだと敵を作ることになります。カウンセリングの先生は、自分らしく生きて敵をつくるほうがいいっていう結論でした。敵と同じだけ本当の味方も増えていくから。全部の人に好かれようなんてことはもともとできないんだから、自分の個性を輝かせて生きたほうが得ですよね。shine

でもやっぱり、現場には現場にしか分からない苦労があるのだと思います。

「私は心配なんよ。ここで軌道修正できひんかったら、この子らどうなっていくんやろうって」

「それなりに人生を楽しめますよ。私にはなぜだか不良って呼ばれてた友達がいっぱいいるんですが、今は強くていいお母さんやし、幸せそうにしてますよ。人からどう思われたって、自分が幸せかが一番大事でしょう。私も人から見たら誉められたモンではないですが、自分のやってきたことに後悔はないです。やりたいことやってきましたからね。レールの上だろうが外だろうが、歩いていけるし、歩いてること自体幸せに感じれるなら、その人が最強ですやんwどんな人生だって幸せはみつけられると思います」

「そう、思う?私はな、その子自身がどうなっていくんかは、そのこの責任やと思う。でも、周りに迷惑かけたりしたら。例えばその子どもとかに。子どもに罪はないのにかわいそうやんか」

「私の母親はたいがいぶっ飛んでますけど、中学生の時には「この人のことは母親じゃなくて、同居人と思おう」って思ってからは、うまいことつきあってますよ。母には母の考え方とか、世界観とかがあって、それは母親っていうのには不向きやったけど、人間としては尊敬できるから、それでいいんですよ」

「そんなふうに思える子ばっかりじゃないやんか。今は事件とかいっぱい起こってるし」

分かります。すごくよくわかるし、すごく心配されてるのも分かります。この先生の言い分はほんとうにもっともだと思うんです。しかもとってもいい先生です。子ども達のことを考えてる。でも、子ども達の立場に立って考えてみると、どうでしょう?

「私はあなたを心配してるよ」

って言われるのと

「私は、あなたが将来何をするかと思うと心配なんよ」

って言われるのと。言ってるほうとしてはそれほど変わらないニュアンスかもしれないけど、言われたほうは・・・・私は後者の発言をした人とは腹をわって話すことは無いでしょうね。

最近、わたしは人それぞれの言葉があるような気がしています。同じ日本語であっても、若者の言葉とお年寄りの言葉は違うし、例えばメールを頻繁に使う息子とコミュニケーションがとれないといっているお父さんと友達になったときにも言ったのですが、息子さんにとってはメールが言葉なんですよね。お父さんが飲ミニケーションを言葉だと感じるように息子さんにとってはメールがコミュニケーションツールなわけです。対面して話しているのと変わらない感覚でメールを使っているんだと思うんです。目の前で話しかけられて無視したりはしないように、メールの返信も彼らの中では礼儀なんですよね。mobilephone

何が言いたいかって言うと、相手の目線で、相手の言葉で話しかけないと、お互い腹を割って話し合うって言うのは難しいかもってことです。無理だとは思いません。でも、相手の言葉を理解できなきゃ、言葉はキャッチボールbaseballにはならないですよね。どちらかというと、言葉のドッチボールbomb。「ちゃんとしなさい!」「ほっとけや!」みたいなwまあ、だからといってこぶしで語り合うpunchとかいうのは、私にはできないですがw

カウンセリングの授業でも「相手の言いたいことを聞くこと」を訓練しました。人は「自分の聞きたいように聞く」くせがついているから。言いたい事をありのまま聞くってすごく難しいですが、大切なことですね。

中学の先生との教育談義はそこで途切れました。電車で分かれることになったので。

どちらが正しいとかは、ないんだと思います。行動でそれを示さない限り私の言うことはただの概念ですしね。

最近私は人がダイヤモンドdiamondに見えて仕方ありません。メガネを変えたほうがいいとか、そういう意味ではなくてwその人のもともと持っている素質とか性格とか可能性とか、人には短所と思われるような特徴とか、そういうのって人間として美しいですよね。美しいし素晴らしいんだけれど、表面に泥とか土とか、手垢とかついてるかんじ。そういう汚れは、例えば自分で自分をあきらめているだとか、現実でうまくいってないこととか、過去のトラウマとか、そういうものなんだと思う。

そういう汚れを少しづつふき取っていくのが、教育者ってことなんかな?と最近思うのです。

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人生を味わう

「感じる」ことについて記事を書きましたが、もうひとつ引っかかっていることがあります。実果さんのくださったコメントをみていて、思い出しました。「答えが用意されている」という現状について。24hours

職場では小学生のお子さんを持った親御さんもいっぱいいらっしゃいます。もちろん、私が先生志望なのはご存知なんで、みんな嬉々として学校や先生の話を聞かせてくださいます。夏休みの宿題の話になったときのこと、息子の絵を描かなきゃいけないと嘆いていたお母さんがいらっしゃいました。saddash

「それは、学校から親子で作品を仕上げてくださいって言われてる課題なんですか?」

最近はそういうのもあるのかとおもって、きいてみたら、どうやら違うみたいです

「だって、ウチの息子にやらせたらなんや、めちゃくちゃになるんやもん。もちろん、ある程度は描かせるんよ。でも、仕上げは私がやったらんと」pencil

「それ、息子さん怒りませんか?」

「いや、何にも思てないみたい。感謝もせーへんわ」think

「息子さん、絵描くの好きじゃないでしょ」

「そうやねん。もっと絵、上手になってほしいねんけどなぁ」

それは、難しいかと・・・coldsweats01

もし少しでも絵を描くことが好きなら誰かの手を加えられることは許せないんじゃないかなぁ。小学校中学年とおっしゃってましたから、はじめて絵を描くわけでもないのに、自分の作品に手を加えられるなんて、私なら発狂モノですWshock

そういう気持ちが起こらないのなら、絵に関心はないのでしょう。ただの課題として仕上げるべきものなだけで、手伝ってもらえただけ、ありがたいのかもしれませんね。そういう気持ちなら絵に興味はないし、興味の無い絵がうまくなることはありえないと思います。down

でも、なんていうか、絵は飾られるわけですよ。で、先生に誉められたとして、その子はいったいどんな気持ちになるんだろう。自分の描いたわけじゃないのにと思うか、あるいは、得したと思うか、特に何も関心が無いか。どの気持ちになっても、あまり有益な教育成果だとは思えないんですよね。

お母さんとして、かまってあげようという気持ちはすごく大切だし、子どもと一緒に作業するのもとても素晴らしいことだけど、なんでも成果を取り上げるのは、よろしくない気がしますよ。と、以上の内容をそのまま話してみました。よくよく聞いてみると絵だけじゃなくて、習字もドリルも、課題研究も木工作品もすべてにお母さんの手が加えられているそうだったので。学校の先生は手が加わってるなんて分からないし、その絵で賞ももらったことあるのよ、と言ってらしたんです。失敗するのも大切な経験だし、自分の手で何かをやり遂げた成果だから、見えてくるものもあると思うんです。というようなことを生意気ながら言いました。coldsweats02

共感をえられたかどうかは難しいところですが、なんだか放っておけない気がしたので。そうそう、確かその時期ぐらいにあの秋葉原へトラックがつっこんだ事件があったんだと思う。だからすごく気になったの。

そういう環境の子ってけっこういっぱいいるのかなぁ。結局周囲に依存するしか生きて行けなくなるんだろうけど、それでもうまくやっていってる子はたくさんいるしね。でも、本当の自信は皆無だし、本当の自由もないんだろうなぁ。ダメってこともないけれど、損だろうなと思う。見えない籠の鳥だから、もし籠が空いても、飛び立たないか、飛び立てないか、飛び立っても苦難に耐えていけるかどうか。子どもの時に味わったであろう挫折や苦労をまとめて味わうことになっているだけだとしても、その人にとってはとても痛いこと。絶えられないことなのかも。もちろん、どんな風に子ども時代を過ごした人だって、自分がなりたいと思うなら、どんな人にでもなっていけると私は確信しています。そのための時間とプロセスがいるだけで、不可能なわけではない。

「失敗を味わうチャンスを、奪うわけにはいかんやんか」

というのは私の後輩に対する口癖なんですがW

何か仕事を任せた時に、「私にはできないから、やってくださいbearing」って言われたらよく言います。その後に

「失敗するから見えるものもあるから、全部ぐちゃぐちゃになって収集つかんくなったら、私が責任取るから、それまでやってみてWW」

そういうこと言うからドSとか言われる・・・・wobbly

最初はドン引きされるんですけど、なれると平気みたいです。後輩達もなれてくると、できるとこまでやって分からなくなったら聞きに来るぐらいになってきました。私との付き合いが長い後輩の中には自信皆無だった子もいたけど、ずーっとそうやって(ちゃんと励ましたり、他の話もしたりしましたよ)接してきて、今は色んなことを任せられる人になりました。彼女の成長は目を見張るものがあります。人はこれだけ変わっていけるんだっていつも勇気をもらえます。punch

彼女がいるから、どんな風に育っても、人は人との関係の中で成長し変わっていける。と確信できたんです。目に見える変化を起こすには、まず心が変わらないとね。心を育てることと、感じること。この二つはとても密接に関係していて、とても大切なことだと思っています。heart02

感じる教育、心を豊かにする教育。ゆとり教育の目的もここにあったんですけど、手段に振り回されすぎました。根幹の考えはとてもいい教育方針だと私はおもってるんですがねぇ。それが「ゆとり」なんて言葉で馬鹿にされるのは、心が痛みます。

今、時代は「脱・ゆとり」。効果的かつ効率的に知識を詰め込む教育へ変換しようとあせって、昔の詰め込み教育の手法を持ち出してきつつある現状に、すごく恐怖を覚えるんですよね。この現状のままそういう手法をとってしまったら・・・どうなるんだろう。bearing

それでも、図太く賢く生きていく人もいっぱいいるでしょう。案外人は強いもの。でも、そのなかで悩んで苦しんでいる人がいるなら、何かできないかなって思う。

でも、まあ、目に見えない人は救えない。chick概念としての誰かを救うことはできない。だからこそ、目の前にいる目に見える人を大切にするしかないし、それこそが一番大切なのでしょう。

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Feel

最近よく考えるのが「感じる」ということについて。

きっかけは多分ラジオで。とある女性作家さんが「女性は元来〝感じる〟ちからが強いもの。でも、最近はそうでもない女性が多くなってきましたね。やっぱり色んなことを感じ取れる女性としての感性を大切にしていきたい」というようなコメントをされていたのを聞いて。ああ、そうだなって思ったのが最初です。

じゃあ、感じるってどういうことなんだろう。

例えば、「美しい」と感じるとか、「悲しい」と感じるという、気持ちの多様さ。

あるいは、相手の心を感じ取る能力。

ほかには、「分かる、理解する」ということの内在化。1センチは、大体わかりますよね、1メートルもなんとなくわかります。でも、1キロは?授業で、1キロあるいて体感させたっていう話を聞いたことありますが、そうでもしなければ、1キロなんて感覚としてわかります?ちなみに私はあんまりわからないです。音楽をしている人なら音の高さが分かる、というのもあるし、私はドラムですから、テンポの速さなら、だいたいわかりますよ♪

そういうことと、もうひとつ、哲学的、道徳的な内在化もあるでしょうね。

私が今、後輩に伝えたいのは「音楽の技術と、伝えたい心っていうのは別のものではないんだよ」ってこと。技術と精神って、よくバランスが難しいみたいに考える人が多いし、私もずっとそうだった。でも、そうじゃないんだってことを私は感じることができたんです。それを伝えたい。でも、頭で理解したとして、それは何の意味も無いんですよね。知識としてインプットされることに何の意味ももたない。心で感じてもらってはじめて、音にあらわれてくるものだと思うのです。

人にとって感じるってことが、とても大切な気がしてきました。

そんなときに、チャーリーチャップリンの台詞と出会いました。

「We think too much but feel too little」

独裁者の中で、チャップリンが演説する場面だそうです。ぜひ見てみたい作品です。

考えることは大切です。でも、人生の難題を前にしたとき、私たちはよく理屈で考えてしまう。そうなるとますます八方ふさがりで、気分がめいってしまったりして。案外自分の気持ちに正直に選択するほうがうまくいくことのほうが多い気がします。というか私がそうしているんですけどw

だって、理屈では絶対無理って分かってても勝負するときって、いっぱいあるもの♪そういうときに理詰めで考えても否定的な要素しか見つからない。でも、自分が本当はどうなりたいのか、どうしたいのかだけを見つめて決断して行動すると、思ってもみなかった力が出せたりしませんか?

まあ、そういうことをおいといても、感じることは人間にとって、とても大切な要素だと思います。チャップリンの台詞は人の痛みを感じるとか、想像力を働かせるという意味をもった「感じる」ではないかと私は思っています。もちろん他の解釈もあると思いますが、感じることは人にとって大切なことであるのは、事実でしょう。

一方今の子ども達の現状を見てみると、感じる余地ってあるのでしょうか?頭では分かってるけど、心で納得してない。そんな子達がいっぱいいるような気がするんですよね。

私がマーチング教えている子の一番最年少は小学生ですが、彼女達ってとっても頭がいいし、お行儀がいい。でも、やる気が無いんですよね。波風立てずにうまくやる事は覚えたけど、楽しむ方法は知らないみたいな。それでもって、圧倒的に自信がない。だからすぐあきらめる。一年かけてやっと私の言うことを共感して聞いてくれるようになったので、最近はそうでもないんですが、やっぱりそういう特徴は見え隠れします。

「感じることができる人」を育てる教育。これからも考えていきたい課題です。

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みんな違って、みんないい

会社のお昼はパートの人と一緒にたべています。自分の母親と同じか少し上ぐらいの人です。何人かと食べてるんですが、そのなかに海外旅行によくいく方がいて、よくお話をします。

今は会社が新システムに変わるというのでその話題が多いですかね。

ありえない話だとおもうのですが、新しいシステムの全体を把握している人がいませんwパートさんにしてみれば、自分達の仕事をちゃんと説明してもらわないと、職場に来ても何をしていいのかわからないんですよね。でも、その指示ができるひとがいない。物流の仕事なんですが、その新しいシステムをつかって、どういう流れで商品を管理したりそろえたり、出荷するのかっていう細かいところを考える人がいないのです。とってもおかしい。

各フロアの判断にまかせるといわれたって、フロアを取り仕切っていた社員さんたちのほとんどは、上から言われたことをこなしていただけなんですね。自分達で工夫と言われても、何をしていいのか分からないというのが本音なようです。その下で働くパートさんたちはさらに困るわけです。

「このはちゃんが責任者だったら、こういう状態どうする?」

ときかれたので

「わたしだったら・・・まあちゃんと把握しておかないといけないっていうのもありますが、フロアで話し合います。だって、みんな初めてなわけだし、色んな意見を聞いたほうがいいんじゃないかなって」

「でもねぇ、中には色々意見言う人もいるだろうけど、ただ、言われたことをしてたい、言われたら言われるままでいいって思う人もいるかもよ」

「それはそれで、必要な人材だとおもうんです。言われたことをきっちりやりきる人と、いろんなことに気がついてどんどん工夫する人と、色んな人がいるからうまく回ると思います。全部が全部同じ考えで同じタイプの人で作られた組織なんて、発展しようがないと思うんですよ」

「でもさ、色々うまくいかんもんよ。扇風機の位置一つとっても、この人はこっちがいい、この人はあっちがいいって言い出したら終わらんし」

「だから、話合うんだと思うんです。私思うんですが、波風立てないようにってよく言いますよね、でも、それって何も変えられないし、無難かもしれないけど、一番やりにくい方法なんじゃないかなって。ちゃんと意見をぶつけてお互いが妥協しないでなっとくできる道を模索するほうが、結果的にいいと思うんです。

たとえ、妥協して、でも何も言わない人であっても、色々思うところはあると思うんです。そういうのがたまりたまって、辞めちゃったりキレちゃったりするよりは、言ってくれたほうがずっといい。まあ、信頼関係があることが前提だと思いますが」

「やっぱり若いんやねぇ。若いときはどう思われてもいいって思って突進していくもんなんよ、それがだんだん言うことを選んで、いえなくなるもんなんよ。みんながみんな目的に向かってがんばろうって思う人ばっかりじゃないしね」

うむ、まあ一理あるとおもって、私が今変えようとしている組織のことについて話すことにしました。

「私ね、今まで関西中から選りすぐりのメンバーで構成された鼓笛隊にいたんですよ。みんな意識も高いし技術もあるしね。そこで10年以上いたんですが、今は地元の鼓笛隊に帰ってきたんです。

地元のほうはね、半分以上のメンバーが長期欠席してて、まとめていくはずの幹部もずっときてなかったりして、もうボロボロやったんですよ。みんなやる気はあったんやけど、最後には「どうせ言っても変わらんし」って言って来なくなったんですよ。

それを変えていくのが私の鼓笛隊としての最後の仕事と思って、今がんばってるんですよ。内容を楽しく変えてみたり、どんどん意見取り入れたりして。ちょっとずつ変わってきてるような気がします。前より来てくれる人も増えたし、私の意見に賛同してくれる人も増えてきたし。

それでね、こないだ私がマーチング担当になってね、それで若い子も何人かつけられて、彼女らを育ててくれってなったんですよ。私は、これからどうして行きたいかを、若い子達みんなとワイワイ話しあいたかったんですよ。でもね、うちのトップの人が「話し合いになったら、皆色んな意見言って収集つかんくなるから、まずはこのはちゃんが決めて、みんなにおろして」って言われてね。

でも、私は話し合うのがすきなんですよ。たとえ自分と逆の意見が出ても、それは私の見えてないところが見えてるから、そういう意見になるわけで、そういう意見を聞けるってすごく楽しいじゃないですか。もちろん、言ってはることもわかるし、私のために言ってくれてるのはわかるんです。そうするほうがいいのかもしれないし。でもね、」

って言ってたら、急に

「あんた、そういうとこ偉いなぁ」

って言われました。

「自分の言い分もある。でも、相手の言い分を絶対否定せーへんやろ。そういう考えが言葉の端々に現れてる」

「自分が絶対に正しいとは思ってないんで・・・」

「いやいや、そういうことやないねん。どっちも正しいって、そういう態度がね、いいねん。たとえ否定されても、そういう態度で言われたら、ちゃんとした話し合いになるやんか。自分の意見言ってる時に「それは違う」って言われたら腹立つもん。うん、そうやわ。目からうろこやわ。そうやな、話し合えばええねんな」

「そうですね。話すれば情もわくし、相手のこともわかってくると思います」

「うんうん。なんかこの年になって一つ成長したみたいやわ。若い人と話してみるもんやねぇ。あんたのそういうとこ、いいところやからずっと大事にするんよ」

「自分では、特に意識してなかったんですが・・・大事にしますw」

「きっと、このはちゃんが、色んな人と関わってきたから備わったいいところなんやろうね。ステキなことやで」

ステキなところを発見できるその人のほうがステキだって思ったお昼でした。結局、私の話は途中で終わったままなんですが、誉められて気分がいいので、まあ、いっかw

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